【ドイツ史】マルティン・ルターと宗教改革〜カトリック体制との戦い〜

ルターといえば宗教改革が思い浮かぶね。

今回はルターの生涯を見ながら、改革運動の流れを確認しよう。

今回は、ドイツの歴史的な人物マルティン・ルターと、彼が携わった宗教改革について。

日本でもルターの名前は広く知られているが、実際に彼がどのような活動を通して改革運動を推し進めていったのかを見ていくことにしよう。

この記事でわかること
  • マルティン・ルターの生涯
  • 宗教改革の概要
  • プロテスタントについて
Contents

マルティン・ルターの生涯

修道士へ

画: 修道士姿のルター, by Lucas Cranach der Ältere (1520)

1483年にドイツのアイスレーベンという小さい村に生まれたルターは、マクデブルクやアイゼナハにて学び、法律家になるためにエアフルト大学に入学する。

そしてある日、落雷に強く恐怖を感じたルターは、助けを求めて聖人に向かって叫び、修道士になることを誓う。

エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入った彼は、祈りと研究に励み、ヴィッテンベルク大学にて教鞭を取り始めるのだった。

贖宥状

贖宥状の販売を促したヨハン・テッツェル

ルターが大学にて教えているころ、世の中ではドミニコ会を中心として「贖宥状」と呼ばれるものが出回っていた。

世界史などで、このワードについて聞いたことがある人も多いと思うが、これはざっくり言えば購入した人の罪が軽くなるというもの。

贖宥状の実際の目的は、マインツ大司教アルブレヒトが複数の「司教位」と呼ばれるものを持とうとし、ローマ教皇庁に多額の献金をするための資金集めだった。

贖宥状販売の独占権を獲得するために、アルブレヒトはサン・ピエトロ大聖堂建設の献金のためという名目のもとで販売を進めていた。

95箇条の論題

画: 95箇条の論題を貼り出すルター, by Ferdinand Pauwels (1872)

贖宥状の制度が濫用されていることを問題視したルターは、95箇条の論題と呼ばれる文書をヴィッテンベルク城の教会の扉に打ちつける。

この文書が宗教改革の発端として考えられているが、他方でこれは本来討論会を告知するものであり、大きな影響を与えようとして書かれたのではないという説も。

さらには、実際にこの論題が教会の扉に打ち付けられたのかどうかも怪しいという見解もあるため、色々と議論が闘わされてきた。

カトリックとの対立

ルターの論敵ヨハン・エック

討論会は結局開かれることはなかったが、95箇条の論題は印刷されて瞬く間に国内で広まり、燻っていた人々のカトリックへの不満に火をつけることに。

神学者ヨハン・エックは、ルターとの討論の中で彼をかつて異端とされたヤン・フスと結びつけ、ルターを異端者に仕立て上げようとする。

ハイデルベルクでの総会でも彼は強く批判されるが、逆に持論を展開していく。その後ルターの求めていたトリエント公会議が開かれることになる。

カトリック側との議論を重ねていくルターだが、最終的には両者の間は断絶状態に。1520年に彼は多くの重要な文書を発刊していくのだった。

教皇レオ10世はルターに自説を撤回しなければ破門すると脅すものの、ルターはその撤回を拒否し、ついにルターは破門されてしまう。

ヴァルトブルク城

ヴァルトブルク城に残るルターの部屋

その間にもルターの周りには彼を支持する諸侯や民衆が増えていき、彼らの声に押される形でヴォルムス帝国議会にルターが召喚されることに。

そこでルターは自らの著作を撤回するか否かを問われるが、これも彼は拒否し、彼の処分が決定される前に賢公フリードリヒ3世の保護のもとヴァルトブルク城に移る。

そこでルターは偽名を用いて過ごし、その間に新約聖書のドイツ語訳を行うのだった。彼はエラスムス1のギリシア語の文書をもとに翻訳を進めていく。

ドイツ農民戦争

ドイツ農民戦争を指導したトマス・ミュンツァー

重税に苦しむ農民もまた、社会変革を求めてルターの改革に同調していく。

ルターの同調者であったトマス・ミュンツァーは農民らをはじめとする労働者の代表として、過激派路線に立つが、ルターの主張を根拠に農民たちが暴力行為に出ると、これを強く批判したのはなんとルター本人。

ルターはミュンツァーと対立するようになり、さらには「12箇条の要求」を掲げて農民たちは反乱を起こし、その運動は瞬く間に広がっていく。

1524年から1525年にかけてのこの暴動がドイツ農民戦争。その一方、ルターは民衆たちに平和な抵抗を求めていた。

アウクスブルクの宗教和議

画: 死後のルター, by Lukas Furtennagel

1529年の帝国議会にて、ルター派支持諸侯の立場を認めつつ、カトリックの立場も保全するという布告がなされる。

これに抗議を行ったのはザクセン選帝侯を中心とするルター派諸侯。これをきっかけにルター派の人々は「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれる。

1530年、プロテスタント側は帝国議会にて「アウクスブルク信仰告白」が提出され、ついに1555年にはアウクスブルクの宗教和議によってプロテスタントはカトリックと並ぶ存在に。

しかし、これは人々が自由に信仰を選べるというものではなく、各都市や領主の決定に従わなくてはならないというものだった。

しかしルターは残念ながら、その九年前にこの世から去っていたのだった。

さいごに

ここまで、ルターの生涯と宗教改革の流れについてざっくりと見てきた。僕自身もプロテスタントということもあり、今回彼について書けたことは嬉しい。

プロテスタントとカトリックの教理の違いなどについては、書き始めると終わらなくなりそうなので、今回はあえてほとんど触れなかった。

ちなみに、ルターの時代の文学については、僕が学部の卒業論文で扱ったため、宗教改革についてもたくさん読んだ記憶がある。

トーマス・ムルナーというかなりマイナーなカトリック神学者・諷刺作家であるが、宗教改革期の文学に関心がある方はぜひ調べてみるといい。

こちらの書籍も読んでみてね!

  1. デジデリウス・エラスムス(1466-1536)はロッテルダム出身の人文主義者・神学者。『痴愚神礼讃』などの有名な著作を残し、ルターとは激しく論争を行った。 ↩︎
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この記事を書いた人

ドイツ語講師を務めながら、ドイツ中世からバロックの文学研究中。主要な作家・作品についての記事を書いています。

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