
マンの作品といえば、まずこの小説が思い浮かぶね!



ドイツの文学を語るうえでは外せない名作だよ。
今回ご紹介するのは、トーマス・マン(Paul Thomas Mann, 1955)の代表作の一つである『魔の山』(Der Zauberberg, 1924)。
第一次世界大戦によって中断されながらも、1924年に完成したこの作品は、読者の大きな反響を呼ぶことになる。まさに20世紀の金字塔ともいうべき作品だ。
マンの生涯についても、以下の記事に簡単にまとめたので、ぜひチェックしてもらえれば嬉しい。それではさっそく、作品の主な登場人物から見ていこう。
主な登場人物
- ハンス・カストルプ 物語の主人公である青年。サナトリウムに入院中の従兄弟ヨアヒムに会いにダヴォス村へ向かうが…
- ヨアヒム・ツィームセン すでに半年近くの間、ダヴォス村にて療養生活を送っている。
- セテムブリーニ イタリア国籍の文学者であり、患者のひとり。訛りのないドイツ語を用いてハンスと様々なテーマについて議論を重ねる。
- ベーレンス サナトリウム「ベルクホーフ」の所長であり、主治医を務める。名誉となる宮廷顧問官の称号を得ている。
あらすじ
サナトリウム


ハンス・カストルプはある日、ダヴォス村に汽車で向かい、従兄弟のヨアヒム・ツィームセンが療養中のサナトリウム「ベルクホーフ」を訪れる。
その場所では、結核の症状に苦しむ患者が多く暮らしていたが、人々の様子は思いのほか朗らかで、演奏会や講演、さらにスポーツなども行われていた。
ハンスは食堂のガラス戸を勢いよく締める女性、ロシア人のショーシャ夫人(本名はクラウディア)を目にし、話を交わすことはないものの、次第に彼女に惹かれていく。
そして、ハンスと関わった人物のうち、とくに議論を通して彼に影響を与えたのがイタリア出身の文学者セテムブリーニ。彼は時折、ハンスに帰るよう促していた。
病


ベルクホーフ到着後すぐに、異常な顔の火照りを感じていたハンス・カストルプ。さらに散歩も長距離はできず、首の震えも始まる様子だった。
さらに体温計を手に入れたハンスが自分の熱を測ってみると、彼の熱は高くなっており、顧問官ベーレンスの診断を受けたのちにしばらく療養生活を送ることに。
レントゲンを撮られたハンスは、彼の胸部に結節があることを知る。それでも、比較的症状の軽いハンスは、サナトリウムに暮らす重症患者らを見舞っていく。
クラウディア


ショーシャ夫人ことクラウディアに対する、ハンスの思いは募るばかりで、彼女が男性の訪問を受けていることに嫉妬を抱く。
しかし嫉妬心は、彼女が油絵のモデルになるために顧問官ベーレンスのもとに行くことを知った際により強くなるのだった。
謝肉祭の催しにてハンスは、初めてクラウディアに話しかけ、フランス語で彼女への愛を告白する。しかし彼女はまもなく、サナトリウムを離れて旅立っていく。
ヨアヒム


セテムブリーニを通じて、古典語教授ナフタと知り合ったハンスとヨアヒム。セテムブリーニとイェズス会士ナフタは、常日頃から様々なことについて議論を戦わせていた。
その一方、ベルクホーフに来てから一年半が経ったヨアヒムは、ベーレンスに対し連帯に行かなければならないために、サナトリウムを去る意思を告げる。
顧問官の強い反対にも関わらず、彼は汽車に乗りこみ、ハンスに別れを告げるのだった。そのときこの従兄弟は、ハンスを初めて名前で呼ぶ。
ペーペルコルン


ベルクホーフでは、オランダ人で富豪のペーペルコルンが生活するようになっていた。彼は入院前にクラウディアと知り合い、彼女と連れ立ってやってきたのだった。
彼は独特の話ぶりですぐさま人々を惹きつけ、ハンスも彼に魅了された者の一人だった。その貫禄はまるで王者そのもので、皆を食事会に招くなどしていた。
容態のすぐれないペーペルコルンを訪れたハンスに、彼はクラウディアについての心境を尋ねる。そしてハンスはその思うところを説明するが、後日ペーペルコルンは自殺していた。
戦争


ベルクホーフに再入院することになったヨアヒムやペーペルコルンが亡くなり、クラウディアも再びこの施設を去り、ハンスは暗い気持ちの中で生活をしていた。
彼の住む環境では、悪魔と呼ぶべき「鈍感」が支配的になり、表面的には活発な生活も、その内実は時間のない、停滞したものだった。続いて人々には怒りやすくなる様子も見られ、喧嘩も多発する。
そしてハンスがそこで生活を始めてから七年が経ったとき、第一次世界大戦が勃発する。ベルクホーフの人々は汽車に雪崩こみ、その中にハンスの姿もあった。
兵士として戦う彼の姿について、語り手は読者に伝えていくが、戦場の混乱の中でその姿は視界から消え失せてしまう。
Point
悪魔


作品のタイトル『魔の山』( Der Zauberberg)にあるドイツ語の「Zauber」は、「魔法」などを表すものだが、物語を読むなかではどちらかというと、「悪魔 Dämon」の印象の方が強い。
読み進める中で、この「悪魔的な何か」について意識していくと、これが読者に意識させるような形で、標識のように散りばめられているのに気づくはずだ。
あらすじにも書いたが、「鈍感」はその最たるもので、作品で度々話題となる「時間の流れ」に対する認識とも関係するため、読むなかでハッとさせられた。
個人的にとても気になるのが、ハンスの指導的立場にあるセテムブリーニが、度々悪魔と結び付けられて描かれることだ。以下は彼に対するハンスの独白。
ああ、理性(ragione)と叛逆(ribellione)の教育家的悪魔君、と彼は考えた。それでもぼくは君が好きだ。
トーマス・マン(高橋義孝訳): 魔の山(下), 新潮社.
戦争


「悪魔」という言葉は、物語の最終部にあたる戦場の描写にも見られる。ここでその一節をご紹介。
彼は倒れた。いや、身を伏せたのだ。地獄の弾丸が、巨大な爆裂弾が、無気味な円錐形の塊が、悪魔のような唸り声をたてながら飛んできたからだ。
トーマス・マン(高橋義孝訳): 魔の山(下), 新潮社.
ベルクホーフの悪魔的なものについて注意を向けていた読者にとって、戦場への急激な場面転換がとともに、この「悪魔的な何か」の性質が大きく変わったことに気づくはず。
実際ベルクホーフのそれは時間概念に関わるものであって、その変化はやはり劇的なのだが、両者はともに人を支配して死や破滅に向かわせる点で共通していると感じる。
さいごに
今回、この記事を書くにあたって久々にこの作品を読んでみた。
初めて読んだ時は、セテムブリーニらの議論が全く頭に入らず、さらに全体にも意識が向けられていなかったせいか、二度目に読んだときは今までと全く異なる印象だった。
この作品をすでに読んだ方、また初めて読むという方には、ぜひ2度目の通読をオススメしたい。実はマン自身ももこれを勧めている。



