
トーマス・マンのファンは日本でも多いね!



今回はマンの生涯について紹介するよ。
今回取り上げる作家は、ノーベル賞受賞作家としても有名なトーマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)。
数ある著名なドイツ人作家の中でも、僕のお気に入りの作家だ。ドイツ語があまり読めない頃も、翻訳を通して彼の物語にたくさん触れてきた。
そんな僕の思い入れたっぷりな作家について、これからじっくりと見ていくことにしよう。1
トーマス・マンとは?


北ドイツの都市リューベックに生まれたトーマス・マン。
彼の両親が熱心な読書家であったことから、幼い頃から本に親しみながら育った彼は、高校を中退後に保険会社にて働きながら執筆を行なった。
1894年から保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説を描き続けたマン。処女作品である短編小説『転落』(Gefallen, 1894)が、ライプツィヒの文芸雑誌『社会』に掲載される。
1901年に『ブッテンブローク家の人々』が発表されると、この作品は非常に多くの読者を集め、マンは一躍ベストセラー作家となることに。
トーマス・マンの生涯
作家デビュー


Von «Wikimedia: Foto H.-P.Haack», CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4157220
読書家だった両親の影響を受け、本に触れる機会の多かったマンは、早い時期からすでに詩作を行なってきた。
10代の前半にアルミン・マルテンスという名の学友に初恋をするマンだが、この人物はのちに『トニオ・クレーガー』(Tonio Kröger, 1903)の登場人物のモデルに。
マンが作家としてデビューしたのは、彼が1894年にミュンヘンに移動し、文芸雑誌に先に紹介した『転落』が連載されたときのこと。
その後も執筆を続け、マンは兄のハインリヒ・マン(Heinrich Mann, 1871-1950)と1895年にイタリアへと移動し、『小フリーデマン氏』(1897)で成功を収める。
トーマスとハインリヒ


1898年に『ブッデンブローク家の人々』(Buddenbrooks)の執筆を始めたマンは、1900年にこれを完成させ、翌年1901年に二巻本で発表される。
この成功は、トーマス・マンの同様に作家である兄ハインリヒを遥かに凌駕。『家族の中で』(in einer Familie, 1894)がハインリヒの最初の作品であった。
『ブッデンブローク』の成功により自信をつけたトーマスは、ハインリヒの『愛の狩猟』(Die Jagd nach Liebe , 1903)や、『ウンラート教授』(Professor Unrat, 1905)を批判。
第一次世界大戦が始まった1914年、トーマスが『戦時の断想』(Gedanken im Kriege)の中で戦争賛美の立場をとると、ハインリヒは弟との交流を5年ものあいだ断つのだった。
魔の山


Von Flyout – taken by Flyout, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=162060
1905年にカティア・プリングスヘルム(Katia Pringshelm)と結婚し、子供にも恵まれたマンは、その後も精力的に執筆を行い『悩みのひととき』(Schwere Stunde, 1905)や『ヴェニスに死す』(Der Tod in Venedig, 1912)などを発表。
そののち、マンはしばらく後に発表されることになる『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull)や『魔の山』(Der Zauberberg)を書き始めていく。



マンの妻がサナトリウムで入院中のことが反映されているらしい。
第一次世界大戦中はこの『魔の山』執筆は中断され、マンは先ほど紹介した『戦時の断想』や『非政治的人間の考察』(Betrachtungen eines Unpolitischen, 1918)のようなエッセイを書くのだった。
戦後にようやく再び『魔の山』の執筆作業が再開されるが、マンは以前の原稿に修正を加えつつ頭から書き進め、最終的に1924年に作品は完成。同年11月には書店に並び、その反響は非常に大きかった。
名声


1922年に兄と和解したマンは、民主主義へと転回の姿勢を見せ、その年の講演『ドイツ共和国について』(Von deutscher Republik)にてヴァイマル共和世の支持を表明。
国内外で講演などの公の場に登場する機会が多くなったマンであったが、1924年の『魔の山』の成功、さらに1929年のノーベル文学賞受賞によって、その名声は最高度に高まる。
ナチス台頭後、マンは1930年にベルリンで行われた講演『理性に訴える』(Deutsche Ansprache. Ein Appell an die Vernunft)にてナチズムの危険性を訴え、本格的に政治に影響力を及ぼし始めるのだった。
マンのこうした精力的な活動はしかし、1933年の亡命開始によって突如中止となる。1936年になると、マンはドイツ国籍や住居をはじめとする国内の財産を無条件で奪われてしまう。



マンにとっての戦いが本格的に始まっていくんだ。
亡命生活


亡命を表明したことで、再び国際的な講演の機会を得ることができるようになったマン。1937年には反ファシズムの雑誌『尺度と価値』(Maß und Wert)を刊行する。
ドイツ国籍を失ったことにより、すでにボン大学から受けていた名誉博士の称号を剥奪されたマンだが、ハーヴァード大学から彼は博士号を授与されていた。
さらに5回のアメリカ入国の末、マンはプリンストン大学で1938年から1940年まで教鞭をとることに。1941年にはカリフォルニアのパシフィック・パリセーズでの生活を始める。
さらにマンは、『すげかえられた首』(Die vertauschten Köpfe)や『ヨセフとその兄弟』(Joseph und seine Brüder)などの作品の執筆に取り組みつつ、多くの政治的な文書を発表していく。
戦後の活動


Von Bundesarchiv, Bild 183-30557-0008 / Horst Sturm / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5427647
1943年からマンは、講演活動や肺癌の手術による中断を挟みながらも、精力的に『ファウストゥス博士』(Doktor Faustus)の執筆を進め、これを1947年に発表。
1948年になると彼は『選ばれし人』(Der Erwählte)の執筆を開始するが、1950年には彼の兄ハインリヒが死去。『選ばれし人』はその年に完成することに。
これに続いて、数十年中断されていた『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の執筆が再開され、1954年にこの作品の第一部が刊行される。



これがマンの最後の小説となったんだ。
そして彼は1954年にスイスのチューリヒ湖付近にあるキルヒベルクへと住居を移し、翌年1955年には故郷リューベックの名誉市民に選ばれるなど、その功績が讃えられる。
しかしその年の7月に病に倒れたマンは、8月12日にキルヒベルクにてその生涯の幕を閉じた。
さいごに
今回はトーマス・マンの生涯に焦点を当てて見てきたが、とにかく目を引くのはその執筆量、そして積極的に政治に影響力を持とうとしている点だろう。
ナチスに対し、亡命生活の中で戦おうとするマンの様子に関心がある方は、下の書籍も手に取ってみるといい。また、マンの小説だけでなく、彼のエッセイや日記もオススメだ。
マンによる個々の作品についてはぜひ、近々ご紹介できればと考えている。
- この記事では主に、次の書籍を参照した。マン研究のエキスパートによるもので、ドイツ語が読める方はぜひ。Hermann Kurzke: Thomas Mann. Das Leben als Kunstwerk. Eine Biographie. 5. Auflage. Frankfurt am Main (Fischer Taschenbuch Verlag) 2013. ↩︎



