【ドイツ史】コンラート・アデナウアー〜復興のシンボルとしての活躍〜

今回ご紹介するのは、ドイツ連邦共和国の初代首相コンラート・アデナウアー(1876-1967)について。

ドイツでは戦後ドイツの「復興」や「繁栄」のシンボルとして、高い評価を得ているアデナウアーですが、日本ではまだまだ知名度は低い模様。

ここでは、彼の生涯についてのみではなく、その政治的な役割についてお話しします。

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アデナウアーとは?

政治家になるまで

1876年、ケルンに生まれたアデナウアーは、官吏の三男として生まれます。フライブルクやボンの大学で学んだ彼は、ケルンの検察庁での勤務を開始。

名門一族出身のエマと結婚したアデナウアーは、ケルンを牛耳るグループへの足がかりを得、後にケルン副市長の座を獲得し、その地位は高まります。

最愛の妻エマを亡くした後、若きアデナウアーはケルン市長に昇進。しかし、1914年に始まった第一次世界大戦は、彼の将来を不透明にするのでした。

ケルン市長として

1918年に入ると、キール軍港の水平反乱を境に、ドイツ各地で様々な反乱が起きます。この革命期にうまく対応したアデナウアーの名声は高まります。

第一次世界大戦後、フランスによるルール地方占領、さらにそれに続くインフレの中、ラインラントを巡る問題について難しい舵取りを迫られるアデナウアー。

これと並行して彼が取り組んだのはケルン大学の再建やケルンの近代化。多額の資金を注ぎ込んだ彼は批判の的になりながらも、首相の座を蹴り、市長再選を勝ち取るのでした。

ナチス政権下

ヒトラー率いるナチスが台頭し始め、1933年にヒトラーが首相に任命されます。間もなくアデナウアーはこの人物と衝突するのでした。

ナチ党はケルン最大の政党となり、アデナウアーは罷免されます。自身の暗殺も噂されたため、彼はケルンを脱出。

一時は監視を受けながらも家族で平穏な生活を送っていた彼ですが、再び逮捕され、収容所に拘禁されます。その後脱出に成功しますが、その後も逮捕されてしまうのでした。

第二次世界大戦後

戦争の結果、700万人以上ものドイツ人が戦死し、特にベルリンは空襲によって甚大な被害を受けます。こうした状況は「零時Stunde Null」と呼ばれました。

イギリス軍によって市長を罷免されたアデナウアーは、キリスト教民主同盟(CDU)に積極的に関与していき、その中で指導的な立場を作り上げていきます。

初代連邦首相

1948年、議会評議会の議長に選出されたアデナウアーは、基本法の布告後、最初の連邦議会選挙を目指した選挙運動が行われました。

その結果をふまえ、アデナウアーは多数が支持する社会民主党(SPD)との連立を退け、首相に任命されます。この時、連邦大統領には自由民主党(FDP)のホイスが就きます。

アデナウアー外交

首相となったアデナウアーは、経済の再建を目標に掲げ、アデナウアー外交と呼ばれる、外交に力を入れた政策をとっていきます。

そのなかでアデナウアーが重視したのが、西側の主権回復と、西ドイツ再軍備でした。この二つは冷戦において、分けることのできないものでした。

アデナウアーは独仏の政治的同盟を説き、1950年に仏外相ロベール・シューマンによるシューマン・プランが発表されます。独仏の石炭・鉄鋼を共同で管理し、戦争を不可能にするものでした。

対イスラエル関係

パレスチナとの対立が深刻化しているイスラエルは、ドイツにとっても重要な国家。ここで、アデナウアーによるイスラエル関係の政策を見ていきましょう。

アデナウアーは首相就任直後、ナチス時代の負の遺産を精算するため、対イスラエル政策に着手します。それは、ユダヤ人団体への補償を行うというもの。

連邦議会での演説にてアデナウアーは、ナチス時代のユダヤ人虐殺が、ドイツ民族の名における犯罪であることを認め、反ユダヤ主義的行動を罪に定めることを主張したのです。

さいごに

アデナウアーが首相を辞任するまでの間、彼は今回扱うことのできなかった様々な試練を乗り越えていきます。

首相を退いてからも、積極的にフランスやイスラエルなどに訪問し、演説などを通して影響力を持ち続けてきました。

1967年の4月、アデナウアーは家族のもとで息を引き取ります。対戦後の独仏関係改善や、民主主義の定着化など、彼の功績はその死後も残り続けています。

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この記事を書いた人

ドイツの大学院にて文学研究中。ドイツ文学を中心に、主要な作家・作品についての記事を書いています。

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